誰も気づいていない!「ニューノーマル」を強制する社会の危なさとは【哲学者・仲正昌樹論考③】
ナチスはユダヤ人や障碍者、同性愛者などの血がドイツ民族のそれと交わらないよう排除した。さらに日常生活において、禁煙運動、食生活改善運動、ガン撲滅運動、性病撲滅運動にも力を入れた。まさにナチスは国民が健康になることを過剰に奨励した国だった。そう、国が国民の自由権的基本権を軽視することになったとしても……。
いま日本でも「ニューノーマル」「新しい生活様式」「新しい日常」と言われ始めている。その言葉の裏で私たちの自由は束縛され始めていないだろうか?
哲学者・仲正昌樹氏は新刊『人はなぜ「自由」から逃走するのか~エーリヒ・フロムとともに考える』(KKベストセラーズ刊)で、「コロナ禍が人々の不安を募らせるなかで「大衆の心理」と「人間の本性」をあぶり出している」と指摘する。差し迫る社会変動に対して緊急書き下ろし論考第3回を公開!
■ 「ニューノーマル」という新しいビジネス
五月末に緊急事態宣言が終了した前後から、コロナに関連して、「新しい日常」とか「新しい生活様式」、あるいは、「ニューノーマル」といった言葉を聞くようになった。時代の最先端の生き方であり、私たちの意識改革を促しているかのように語られる。経済・経営評論家の中には、海外の取り組みを紹介しながら、それが新しいビジネス・チャンスに繋がることを示唆する人がいる。スキゾ・キッズ、スローライフ、ノマド、ミニマリスト等と同じ様なノリで。
確かに新型コロナのおかげで、ZoomやWebex、Discordなどを利用したオンライン会議や授業が急速に普及しており、ネットを介した分業化・在宅勤務も進んでおり、通販サービスの利用機会も増えている。これをチャンスにして、大きく成長できる分野は確かに存在する。
しかし、従来のスローライフなどのトレンドと、「新しい生活様式」の間には決定的な違いがある。これまでのトレンドは、生活様式が多様化し、個人の選択の余地が増えることを含意していたが、「新しい生活様式」は、各人が受け入れるべき義務である。
人と人が接触する機会を減らさ「ねばならない」、人と人の距離を広げ「ねばならない」、同じ物に触れないようにし「なければらない」ことが前提なので、出来ることは自ずからかなり限定される。これらの「ねばならない」を実現するには、いずれにしても広いスペースが必要である。スペースの余裕がなかったら、同時に利用できる人数を制限するしかない。日本のように狭い国土だと、各人が一日の内、公共空間で活動する時間を減らすことになる。
更に言えば、現在、「新しい生活様式」の目に見える特徴になっているのは、フェイスシールドや飲食店の仕切り版など、各種のプラスチック製のシールドだ。「新しい生活様式」が拡充するにしたがって、新しいタイプのシールド素材や製品が開発されるかもしれないが、それを新しい成長のチャンスと見るべきなのか?
高齢化に伴う介護のニーズの増加が新しい経済成長のチャンスだと言われても、無理な“ポジティヴ・シンキング”と感じる人は少なくなかろう。全ての人の行動範囲を縮小することを余儀なくさせる、「新しい生活様式」をポジティヴに捉えることは、それより遥かに無理筋であるように思える。
人間同士あるいは人間とモノが直接接触するのを防止するために、プラスチック状の新素材をあちこちに張り巡らし、人の動きを高度のIT技術で管理するというのは、SFによくある光景である。その種のSFは、人々が完全に健康であり続けることやリスクがないことを求めすぎて、生命維持をAIや“全能の指導者”に委ねることから、非人間的なシステムが出来上がり、自由を失ってしまう、最終的には、自由を失っている、という意識さえなくなってしまう、という設定だ。
■人と接触する自由の代償として何があるのか?
このイメージの草分けになったのは、オルダス・ハクスリー(一八九四-一九六三)の小説『すばらしい新世界』(一九三二)である。この世界では、人間が培養瓶の中で選別的に「製造」され、階級ごとに体型も知能も決定され、あらゆる予防接種を受けるため病気にかかることはなく、六〇歳前後で死ぬまでずっと若いままである。瓶の中で製造される人たちに家族はいない。映画『マトリックス』(一九九九)は、苦痛やリスクの原因となる身体の活動を完全に停止させ、ヴァーチャルな世界で代用するという設定だ。プライバシー込みで自分の身体の管理権を失うことと引き換えに、「安全」が得られる。「ニューノーマル」は、人と接触する自由の代償として、何を与えてくれるのか?
近代社会がいかなる逸脱(アブノーマル)も認めない「ノーマル」な状態を求めすぎるあまり、各人が行動の自由を失い、管理されることを不自由と思わなくなる現象を、最も先鋭に描き出したのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(一九二六-八四)だ。フーコーによれば、前近代的権力が軍隊や警察などの暴力装置の威力を人々に見せつけ、死の恐怖によって支配していたのに対し、近代の権力は、人間としての「普通な生き方」のモデルを示し、人々がそれに“自発的”に従うよう誘導する。
異常(abnormal)になることを回避し、あくまで「普通(normal)である」ことが、道徳的な規範(norm)になった。病人ではなく健康であること、狂人ではなく正気であること、各種の性的逸脱・倒錯者ではなくノーマルな異性愛者であること、犯罪者体質ではなく善良な市民であること…。
こうした「普通さ=規範」を確立するうえで、近代的な権力は医学や心理学、社会学などの知識を利用してきた。どういう状態にあるのがヒトとして“普通”であるのか科学的に“証明”してみせることで、人々が政府などの公的機関や大企業などが示す「規範」を無理なく受け入れるようにするのである。
実際、私たちは入学や入社に際し健康診断を受けて、心身ともに健全であることを証明してもらっている。メタボ検診やストレス・チェックなどを定期的に受けることも、本人や家族のためだけでなく、将来、会社や国の重荷にならないために、受け入れるべき自然な義務になりつつある。
疫学者が、飲食店の時短営業やイベント自粛、時差出勤は、新型コロナの感染を〇〇パーセント抑える効果があると言えば、それに自発的に従うのが、人として当然と見なされる。そうした“従順さ”に疑問を呈すると、「人としておかしい」、と言われる。
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